のうまん農園だよりより

創刊号2016.6より

 就農して七年目のシーズンを迎えた。前身の家庭菜園は大規模酪農場に勤務していた時に始めた。もともと何かを飼ったり、育てたりということが好きだったので、そのうえ比較的短期間で食卓に還元され、家族に喜ばれるという作業にすぐにのめりこんだ。酪農場では、自らの未熟さは棚に上げ、痒いところに手が届かない歯がゆさに痺れを切らし、どうせなら経営も実務も自分でやりたいと一念発起して、新規就農を決めた。なぜ牛ではなく野菜だったのかというと、資金面や労働力を考えると、僕たち夫婦ではとても酪農はできないと判断したからだ。学生時代の少しの農業体験と二年程度の家庭菜園の経験を元手に見切り発車気味にスタートしたが、自然界と農の奥深さにますます魅せられ、兼業から専業へと本格的に取り組むことになった。

2017年09月05日

第2号2016.7より

 今思えば、かなり無謀だったといわざるをえないが、多品目栽培も、職業としての農も経験しないまま就農した。その前段として、住む地域と家を決めなければならなかった。就農ということもあったが、一番上の子が翌春に就学を控えていて、それまでは親の都合で四つの保育所に通ったので、今度の家は仮ではなく、落ち着けるところにしたいと考えていた。いろんな意味で農業がしやすい、というのはもちろんだが、人里離れたところに暮らしたかったわけではなく、子育て環境のバランスがよく、東京などの大消費地からもそれほど離れていない地域を求めていた。日本中を探せばいいところはたくさんあるのだろうけど、結局それまで勤めていた牧場があったので、知り合いの縁があり、適度な田舎の安曇野に決めた。重要な家は、なかなか難しかったが、運よく先輩就農者の家の隣が空き、しかもなんとか手の届く範囲の額だったので、入居することができた。

2017年10月21日

第3号2016.8より

 実は恥ずかしながら、牧場の話が来るまで、安曇野という地を全く知らなかった。なんの先入観も無くこの地に住まうことになり、いざ暮らし始めて、農を営み始めて知ることがたくさんあった。二〇〇五年に当時の五町村が合併して「安曇野市」は誕生した。一般的に安曇野というと、のどかな田園風景と北アルプスの眺望というイメージがある。ぼくが農園を構えたのは、旧五町村の中の三郷村、その中の一番西の山の方にある小倉という地区だった。ここは扇状地で石が多く、水はけがいいのでりんご・なし・ももなどの果樹園が広がっている果樹地帯だ。田んぼは先人が切り拓いた準棚田ともいえる小さく段々の田はあるが、田園風景といえるほどではない。また山際なので、大きく見れば同じ山並みの北アルプスを眺めることはできない。冬は寒過ぎて野菜が育たなかったり、果樹園の近くでは農薬飛散の可能性があったりと、有機農家としてはマイナス面もあるが、果樹が栄えただけに日照時間は長く、山から染み出る水はきれいだし、一年・一日を通しての寒暖差が大きく、美味しい作物が育ちやすい、そんな土地柄であることがわかってきた。

2017年12月28日

第4号2016.9より

 安曇野市は米の生産量が長野県で一位という稲作地帯でもある。安曇平と呼ばれる、盆地の底に当たる辺りはその名の通り平らで整備も進んでいるので、田んぼ一枚の面積はそこそこ広く、形も作業がしやすい長方形が多いが、僕たちが住むことになった家は山際で、周りには棚田のような段々で、いびつで狭い田んぼばかりだった。そのような田んぼは大型機械が入れず効率化が進まない。規模拡大を目指す大きな農家は借りないので、高齢化と相まって地区の半分くらいは遊休農地となっていた。これは僕たちにとっては好都合で、農業委員に地主を紹介してもらい、家のすぐ近くの田畑を順々に借りることができた。いきなりやってきた就農希望者に簡単に貸してくれないことも多いと聞くが、これも土地柄なのか、殆どの場合、「どうぞ」とか「助かるよ」とか「あなたたちのような若い人を応援したいのよ」と快く貸して下さる方が多く、家から歩いて行ける範囲で数枚使わせてもらえることになり、本当に助かった。こうして、家に続いて、農地の準備も整った。

2018年05月08日